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18 March 2007

YouTubeとヲタクなわたくし

ちょっと間があきました。レスをつけてくださっていた皆様申し訳ございません。管理人は2か月の帰省をおえてふたたびUKに戻っております。アサクサあたりでオオザケ飲んだのがまるで昨日のことのようです。

このたび長期間いる間に便利で明るい東京にカラダが慣れていたらしく、着いて街を見まわしたときにいつにもまして感じました。「ロンドンってぼろ」。ヒースローの建築はひと昔前の形で天井が低いし、街は古くて道幅が狭くて明かりもなんとなく暗いし、キングスクロスで電車に乗ろうとすればドアが手動だったりする。このインフラではたしてこの人たちはオリンピックができるのだろうかと案じつつがちゃりと開けて乗りこんで席に座ると、そこの窓が壊れててどうしても完全に閉まらない。もうスーツケース引いて移動するのも面倒だからいいよここで、と吹きこむ超寒い風をびゅーびゅーくらいつつ、ああこの不便を平気で放っとく感じが英国。としみじみ思いました。

帰ってきたらBBCではコミック・リリーフのフィナーレでした。過去のコミック・リリーフの名場面集があったらしいんですが遅かりしで見られず。ちくそう、名作のひとつ、スティーブン・フライとボブ・ゲルドフ&ミッジ・ユーアの「バカ馬」をやってたかもしれないのに。いやこれ未見なのですが、当然銀行家はフライさんで、ライブエイド仕掛人組の寄付のお願いを「わたしはとってもとってもとってもとってもお金持ち」とか言いつつニベもなく却下するのでしょう。ものすごく見たい。あと、確か99年のコミック・リリーフでやった「たて笛でおんなじ曲ばかり吹いて英国民の気を狂わせるデイヴィッド・ボウイ」というのもずっと探している映像です(ボウイがなさけない曲をぴーひょろ嬉しそうに吹いている画面の下に、「この曲をやめさせるためには今すぐBBCに電話して寄付しれ!」とテロップが出るんだそうです)。こういうのはさすがにBFIにもようないだろうし。

一方イーベイではコミック・リリーフ特別オークション大会開催中。で、マイケルがこういう物件でちょろりと協力しているのを発見。→★★★
これを書いている今のとこ、残り時間は1時間ちょいで価格は150ポンドです。このくらいなら普通のワインでもありという値段ではなかろうか。さあどなたもはったはった。

それからこのコミック・リリーフ中にさりげなく、しかし大っぴらに宣伝されていたのが、ミスター・ビーンの新作映画なんですが。いや「さりげなく大っぴら」って矛盾していますが本当にそんな感じでした。でもそんなことはどうでもいいのです。ねえねえビーンさん、それってひょっとしてアレではないですかっ。→★★★

元祖のあの方が腰を痛めてこの歩行が不可能になったとき、人間の文化からひとつの無形の財産が失われたことをわれわれは深く悲しんだことは記憶にわりと新しいです(か?) しかし、やはり、元祖を神とあがめていて、だからこそこの世界にやってきたローワン・アトキンソンです。最近はすっかりリチャード・カーティスの方に行っちゃったのかと思ってたんですが、彼のルーツはこれ以外にありえないことを再確認させてくれました。いやこの画像が内容にどの程度関係があるのかはわかりませんが、これだけで見に行きます。

ところでお話は戻りまして。
例えばフライとゲルドフ&ユーアの「バカ馬」を見たいのなら、今の世の中ならまずYouTubeその他を探すべきなのかもしれません。でもわたくしはそうすることに若干の抵抗があります。というよりただ単に、わたくしはあたまの古いヲタクなので、レア音源や映像とは、西新宿、国会図書館、ブリティッシュ・ライブラリ、BFI、リンカーン・センターやTV博物館その他に自分の足で歩いて行ったり、あるいは目録を必死でめくったり、持ってる人を人づてにさがし当て、よりレアな物件をさしだし土下座したりなど、非常にアナログな活動の結果発見するものであるという意識がなかなか抜けてくれないのです。「バカ馬」もYouTubeに行ったら今すぐにこの机の前で見られるかもしれない。ただ、仮にそうやって見てもわたしはあまり嬉しくないでしょう。なんというか、ヲタクはそれじゃ我慢できない。見りゃいいってもんじゃないんです。何故かというと、「バカ馬」は世間一般には一文の価値も意味もないからです。そういう妙なものでも、アナログな努力を払うことによって「わたしというヲタがある意味を見いだして発見したモノ」という、ひとつの価値がはじめてそこに貼りつくのです。だから、無意味なものをキーを数回叩いてYouTubeで見たとしても、価値が何も発生しないままそこで終わってしまう。少なくとも(今のところ)わたしにとっては、YouTubeで今キーをぱこぱこ叩いて見る例えば「バカ馬」と、BFIやBBCアーカイブを訪ねて目録を探して見るそれとは、同じものではぜんぜんないんです。なんというかえーと、例えば結果として「シャケを焼いて食う」という欲望を満たす行為があったします。でも結果は同じでも、そのシャケが①近所の西友で切り身をパックで買ったものである場合、と②アラスカの川で一本釣りで捕ってきて自分でさばいたものである場合、でだいぶ印象が違うようなものです。

もっともこれも人によって感じ方は違います。なにしろわたしは古い型のヲタクだ。下手するとそのうちグーテンベルクも印刷技術を発明しないほうがよかったのにとか言い出しかねないので注意が必要です。

パイソン好きの人々はよってたかってYouTubeにいろんなものをあげているのはご存知のとおりです(スピークス!の著者デイヴィッド・モーガン氏が、手持ちのレア映像をどんどんあげちゃってくれているのにはびっくりしました)。あと先日白夜書房の空飛ぶ編集人ことenoさんこと榎本さんとお会いした際、「パイソン関係の人々はあえてYouTubeを放置して、あのメディアを逆手にとり利用しているふしがある」というアイディアを得て目が覚めるような思いにとらわれました。だとしたらあの人たちは賢い。これはますます古いあたまをあらためねばならず。もっともいくらあらためたところで、地道に図書館の奥を掘り返すというようなヲタクアナログ行動がやっぱりそもそもものすごく楽しいのは事実であって、このへんどう折り合いをつけていくべきなのか。と結論の出ないまま。

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Comments

>「パイソン関係の人々はあえてYouTubeを放置して、
>あのメディアを逆手にとり利用しているふしがある」

実際のところは、パイソンだけが頭がよいわけではなく、たとえばサタデー・ナイト・ライブなんかはNBC自身が番組を切り刻んでYouTubeに上げてますし、いま旬なリトル・ブリテンのスケッチも相当な数アップされているものの、BBCがそれらを削除する様子はあんまり見受けられません。

むしろ。

彼らの頭のよいところは、「新しいファンの開拓のために、あえて劣化コピーのばらまきを促進している」という点だと思います。
パイソンをリアルタイムで観ていた英国の人々は、「もとから人気者だったジョンやマイケルが出ているから観る」という、暴言を承知でいえばアイドル(エリックひとりのことではない)番組としてとらえていたんでしょうが、アメリカはじめ世界各国におけるパイソンの視聴者のほとんどは、「あー、これジョンが出てるから観たーい」と言ってテレビの前に座ったわけではありません。

1969年のイギリスに生きていなかった皆さん、胸に手を当てて思い出してみましょう。あなたのパイソンとのファースト・コンタクトは
「テレビをつけたら、なんか変な番組をやってた」
ではないですか? 
もっと簡略すれば「なにかの間違い」。
で、気がついたら観てしまっていた。

パイソンやSNLの関係者たちは、経験則として
「自分たちのファンは、『なにかの間違い』によって増えるものである」
ということを理解していて、「なにかの間違い」が起きる機会を積極的に増やそうとしてるんではないか、ぐらいのことは憶測してもそれほど外れていないでしょう。
とすると、「ファンが勝手にスケッチの動画をYouTubeにアップロードしている」という状況は、しめたものなわけですよ。自分たちがやらなくてもいいんですから。
「なにかの間違い」が起こる機会を、ファンたちが自発的に増やしてくれている。これはmixiやブログをどうこう論じるよりも、よっぽど明快なConsumer Generated Mediaの実例といえるでしょう。「バイラル・マーケティング」や「口コミ伝染病」が裸足で逃げ出していきます。

とはいえ、自分たちの持ってるコンテンツによっぽど自信がなければできない戦略ではあります。なぜそこに「自信」があるのかと問われれば、すでに40年近くにわたって「『なにかの間違い』で引っかかった連中が、確実にカネを落としていってくれる」姿を見続けているから、という身も蓋もない計算があるのも間違いありません。劣化コピーや断片はいくらばらまいてもよろしい、「なにかの間違い」でハマったら劣化コピーでは絶対満足できない、ビデオやDVDなど、カネになる媒体に手を出すのは確実だからな。
……麻薬ビジネスとどこが違うんだろう?

で、アナログ世代のヲタクはどうすればいいかというと、そのアナログ探求行動を極め、「わたしはパイソンのためにこんなにカネと時間を使ったんだー」と、自らのポトラッチを喧伝するのがよいかと思います。
そのカネの一部は、少なくともマイケルの本のサイン会に現れたジョンの飛行機代や、テリJが中世研究のために買った高価な高価な文献代の足しになったんだろうと考えると、「パイソンに触れるために無駄なカネと時間をがんがん使えないデジタル世代はかわいそうだ」、と思えてきませんか? 蕩尽こそが複製芸術時代の文化ですよ(書いてて眠くなってきたので自分でも意味よくわからない)
パイソンズに愛を。そしてカネと時間を。もっと。

Posted by: eno7659 | 19 March 2007 at 17:15

enoさん(どぜうオフではどうもでした!どうでも良いことですが、御会いするまでは何故か女性だと思い込んでいました)のお話で、企業がYouTubeに対して前向な姿勢を見せているらしいと知り、大変ほっといたしました。浅ましくも逞しい人間の力みたいなものを感じます。

さて、ここからは商品化もされていないレア物件に限った話をします。この度レスに踏み切ったのは、僭越ながらこの場を借りて、デイヴィッド・モーガン氏の弁護をさせていただくためです。緊張で半分パニくっているので、もしおかしな点があれば、お手数ですがツッコミを入れていただけると助かります。

モーガン氏がYouTubeに上げていた動画は、インタビューがいくつかと、スケッチが1つでした。そのうちスケッチについていたコメントのみ、手許に残してあります。内容には件のスケッチがお蔵入りになっていた理由、入手した経緯、公開する目的などが示されています。

フライング・サーカスの台本をまとめた書籍『The Complete Monty Python's Flying Circus: All the Words』には、第38話のオープニングとして、政治家がスピーチをしながら踊るスケッチが載っています。にも関わらず、DVDをチェックするとそのような場面は無いので、不思議に思った方もいらっしゃるかも知れません。これは、再放送時に選挙前だったからという理由でカットされたっきり、お蔵入りになってしまっていたスケッチなんだそうです。どこからか音源を入手したことで、このスケッチが確かに撮影されたことを知っていたモーガン氏は、アメリカ、カナダの放送局や資料館など、映像が有りそうな場所をくまなく探しまわりました。しかしなかなか見つからず、ようやく去年、カナダのコレクターの元でテープが一本だけ発見されたそうです。映像は"a pledge drive for the station, WNED in Buffalo"(?)の時に流されたもので、pledge drive(って何だ)の電話番号がほとんど常に画面上に表示されており、そのため公式な場で使うことは不可能という代物でした。モーガン氏は、第38話の完全復活を目指して、件のスケッチのコピーがどこかに眠っていないかどうか、呼び掛けを行っていたわけです。

安っぽく西友に並んでいても、元を辿ればアラスカの漁師が一本釣りしてきた魚であることがしばしばです。本当に良い魚だったら、腕の良い料理人にはその価値が分かるものですし、美味しく調理して客に振る舞うこともできます。akkoさんはそっちにやり甲斐を見い出すわけにはいかないのでしょうか。情報交換手段の発達によって変わるのは、ヲタ活動の量ではなく、質だと思うんです。総合的に”ヲタ”と呼ばれていた人々は、役割により情報収集家とその他のヲタ達(考察家、創作家など)に分かれ、それぞれの活動に集中して取り組めるようになるということです。世界規模の公開を簡単に行えるYouTubeは情報収集家にとっても便利なツールであるはずです。公開するということは、発展性、つまり情報そのものの利用価値を高めていることになります。自分が掘り出してきた映像を、より沢山の人々の目に触れさせることにより、自分だけでは成し得なかった発見に貢献したり、思いもよらぬ活用で楽しませてもらえるかも知れない…そんな期待に応えようとすれば、見る側の人間も暇になるとは限りません。akkoさんのような料理上手が、せっかくの魚を前に無視を決め込んでいるというのは、飢えた我々からすれば堪らなく歯痒い光景です。

Posted by: 青 | 20 March 2007 at 11:32

しまった。話が長くなりすぎているぞ>俺。
青さんどういたしまして。
女系家族に育ったもので、心の中に女子が住んでるんです。

それはさておき。
たとえば「ニコニコ動画(http://www.nicovideo.jp/)」なんて、
ひろゆき自身も

>ひろゆき氏が当初から期待していた使い方がある。
>YouTubeで流行している英語映像の翻訳・解説だ。
>「『これはこういうふうに言ってるから面白い』と分かると嬉しい」。
>だがまだ、そういった投稿はないようだ。
(http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0701/30/news035_2.html)

ここでパイソンやリトル・ブリテンの字幕をつけなくて、いったい何に字幕をつけろというのでしょうか。
天啓を受けた方がいらしたらぜひやっていただきたい。「お前がやれ」と言われたら困っちゃいますけどね。

Posted by: eno7659 | 23 March 2007 at 14:29

おふたかたにレスを頂いてからずっとYouTubeのことを考えています。今もまだ考えつつぽつぽつ書いています。

まず最初に、エントリの言葉が足りていなかったようで申し訳ないです。わたしはYouTubeに対して無視をきめこんでいたり否定したりしているわけでは決してありません。それどころかわたしもまたYouTubeの恩恵にあずかっている人間です。パイソンを含む各種レア動画を見て喜んでいます。日本にいて見られなかったハム君生還再開「トップギア」を見て泣いたりしています。あるいは以前enoさんにご教示頂いた、アメリカの市井の人々が普通にスパマロットの歌を歌っている光景には心がうち震えました。そのほかにもYouTubeさんいろいろお世話になっています。

しかし何故それでも「抵抗がある」と書いたのか。
青さんのレスを拝読しわたしは考えた。

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...
....
.....

と上の一文以来、その続きを書いては消し書いては消しいろいろ絞りだしいじくっては削除しのくり返しで数日経過してしまいました。これでは管理人の風上にも置けませんが、しかしどうしても自分がYouTubeに置いている距離につき、第三者の方にすっきりと説明できる理屈が見つからないのです。たとえばそれは著作権に敬意を払いたいからか。と考えると、脳内で「でも同人誌や海賊版は好きで毎週末必死で西新宿の海賊版屋さんを経巡っていたじゃないのか自分」という声が聞こえてくる。あるいは動画を共有する手段としてのインターネットにマスメディアとしての質を問うているのか。そこが玉も石も同一平面上にころがる平野であり批評の体系が存在しないからなのか。と思い当たると、「しかしパイソンだって、もともと当時は海のものとも山のものともつかない、どちらかというと扱いの低かったテレビというマスメディアの、さらに空き地みたいな有象無象の空間から生まれてきたものじゃないのか」とただちに自己ツッコミが入る。そのほかいろいろこねくりまわして結局どこにもたどりつかず、わたしは途方に暮れました。

途方に暮れて日が沈み、ぱその前で頬杖ついて、見やればそこには初春の墓場。(うちの裏は古典的な墓地です)。そこに数百年埋まっている人たちこんばんは、ところでわたしは何故またこんなにYouTubeを気にしているんだろうか。

ふとYouTubeに行って見たかったものを見る、それは面白い、面白く嬉しがりながらしかし、そのたびわたしは自分に問うてはいなかったか。たとえばたまたま今YouTubeにログオンし、この怒涛のような動画群の中から、わたしはある特定のひとつを拾い上げて見ているけれど、それはいったい何故なんだ?

それは友達が「これは面白いよ」とメールで教えてくれたからか。それもある。けれども何をどう考えた結果、友達はこれを自分に送ろうと思ったんだろう?何故わたしは友達にこれを見せられているのだろうか?それともリンクが誰かのブログに貼られていたからか。それもある。では何故自分はそのブログを読むのだろう?何故自分はそれを読み信頼し興味を抱いてここに来て今これを見ているのか?インターネット上にあるもの同士の評価とか批判とかを、さらに見極めることができるような、わたしはそれほどの人間であるのか?

いやそれは違う。自分は自発的に何かを探して見るためにYouTubeに来たのだ。例えばハム君のトップギアを見たいという立派な理由があったからだし、探せばそれが見つかるからだ。しかし、それは本当に自分の見たかったものだとどうしてわかるんだろう?「YouTubeに来たらあった」、それでいいんだろうか?その先にナニカはないのだろうか?もっと自分にとって意味のあるものが、たまたまそこにはないという理由だけで目に入っていない可能性はないか?そこに「ない」ものこそが自分が見たかったものじゃないのか?あるいはYouTubeにあったとしても、それを見逃していないということはどうやったら自分にわかるんだろう?そこにある「検索」というシステムは誰が作ったのか?わたしはそのシステムを知らないしたぶん知る機会もないが、知らないシステムを信頼していいのだろうか?もしその検索システム独自の理由により「自分に意味があるもの」があがってこなかったら、それが「あがってこなかった」ということは自分には永遠にわからないんじゃないのか?

ねちねち考えトランス状態、はっと気づいて正気に返り、頭をぶるぶる勢いよく左右に振りました。すると余計な理屈が振り落とされて、そのとき急に、いきなりクリヤにわかりました。

要するに、
わたしはただ単に、理屈ぬきで、情報をアナログな手段で探して見つけることが物凄く好きなんです。好きですきでしょーがないんです。アナログ探しは多大な時間と、そしてしばしばある費用をかけることを要求されます。それはインターネットに比べたらまったく不便です。でもそんなことは別にいいです。せっかく社会を便利にしてくれたインターネットさんには申し訳ないんですが、何かをアナログで探すことの楽しさは、その時間金銭に関する不便さをしのいであまりあります。というか、言ってる理屈が矛盾しててもなんでもいいとにかくわたしはあれが好きなんだ。

それがどう楽しいか。ということを必死で書いたこのへんを、お手すきのときに覗いて頂ければ幸いです。
http://www.btinternet.com/~akko.o/tfjc/afterwords/ny3.html
http://www.interq.or.jp/ski/sakana/quso/backnumber.html 2004年12月14日号(まき名義)

例えばニューヨーク図書館。あれは本当に楽しかった。今でもあの感動はびりびりくっきり覚えています。だからわたしの整理棚には「2003年ニューヨーク図書館バコ」があり、その中には発見したもののコピーはもちろん、書庫出庫票や待ち番号券や白手袋などが保存されています。このとき見つけたのは動画ではなく新聞記事と写真群ですが、その画像はひょっとしたらどこかのウェブで見つかるかもしれない。ひょっとしたら今キーを叩いたら今この机の前で「同じ」ものを見ることができるかもしれない、そこに達するまでの手段が「自発的」なグーグル検索でも、あるいはなんらかのリンク先であっても。

しかし、23丁目から必死で40ブロック北上してそして遠くにメトロポリタンの噴水が見えてきたときのあの感じ(わあ「月の輝く夜に」のあれ!)、図書館に入館しようとしたら入り口、エレベーター、階上と3回セキュリティチェックがあったこと(まだあの記憶がなまなましいニューヨークだった)、片隅の棚にとりつきあるかあるかないかとめくっていたCの棚のインデックスカードの指先、ペーパーファイルの紙束をかき分けて現れたジョンの筆跡、写真閲覧室でこれは何だろうと手に持った封筒の感触と重さ、数秒後にその封筒を開けたときの眉間への一発、当時のロンドンからニューヨークへの物理的な距離と文化的な距離の物凄い違い、そのはてしなく遠い文化的距離を、さらに一回地球の裏のニュージーランドを経由して、ロンドンからここまでやってきた若い連中がかつていた、しかも「この街」に間違いなくいたわたしが今手にしているのは生の彼らが40年前に「ここ」に残していったものなんだ、という理解の波の衝撃。それはかけがえがなく、五感にタトゥのように刻まれていて、少なくともわたしの中では、ほかのことと比べることはできないでしょう。おそらくモーガンさんも、38話を探していたときそこにはすさまじい労力が費やされたはずです。そういうことをやり実際に発見したシュリーマンのようなモーガンさんをわたしは尊敬します。しかしわたしが羨むのは、その発見という功績よりも、その捜索の旅の過程です。それは大変であると同時に物凄く楽しかったに違いない。そこに楽しさを見出していたからこそ、その大変な過程をやり抜けたんだろうと思いますがどうでしょう。

スーパーの棚にアラスカのワイルドなシャケが並んでいる、漁業界のテクノロジはすばらしく進歩しているのでシャケ品質に遜色はない。スーパーでシャケ買って焼いて食っている、けれどもわたしがシャケ釣りのダイナミズムをこそ愛する人間だったとしたらどうだろう。確かにこれはアラスカのシャケかもしれない、しかしそれをダイナミックに釣ったのは、自分ではない。わたしは釣りをしたい。スーパーでシャケは食える、しかし自分はすごく遠くまでわざわざアラスカにでかけて行って、スケールでかい空気を吸って、ワイルドな川に船を浮かべて乗りこんで、そして魚たちと竿も折れんばかりのかけひきをしたい。引きをぎりぎり手に感じてリールを巻きあげたとき、川面に跳ねあがるシャケをこの目でたしかめたい。と思うのではないでしょうか。

変なたとえになったところで、ちと長くなりそうなので続きます。

Posted by: akko | 24 March 2007 at 13:33

こんにちはエフェソスです。

>ロンドンからここまでやってきた若い連中がかつていた、しかも「この街」に間違いなくいたわたしが今手にしているのは生の彼らが40年前に「ここ」に残していったものなんだ、という理解の波の衝撃。それはかけがえがなく、五感にタトゥのように刻まれていて、

そう、そう、そう、そう!! akkoさんのことがうらやましくてならないのは、akkoさんのこうしたところなのです!! ご自分ではもしかして、ほかの人はやろうとしないだけ、とお思いかもしれません。でも、違うんです。こうしたことができるのは、特別な才能なのですよ。以前、わたしがジャック・フィニィのことを持ち出したのをご記憶でしょうか。(akkoさんは、「レベル3」を連想されてしまったようで申し訳なかったです。こっちは少し現実逃避の気配がちょっとあれですね。ノスタル爺のほうがいいですね。)あのとき、わたしの頭にあったのは、「ふりだしに戻るTime and Again」(とその続編「時の旅人From Time to Time」)でした。主人公は、タイムマシンを使わずに過去の時代に行くことができる特殊な能力の持ち主です。ただし、そのためには準備がいります。その時代から変わっていない場所に行き、その時代の物に囲まれ、その時代を思い描くのです。主人公の行き先は1880年代のニューヨーク。本には主人公が撮ったとか描いたという設定で、実は作者自身が集めた当時の写真や挿絵がふんだんに入れられ、愛情のこもった描写がされるので、作者はこの時代が本当に大好きで行きたかったのだろう、そしてついにある意味、入り込むことに成功したのだろうと感じずにはいられません。わたしが、akkoさんみたいだなと思ったのはこのことでした。akkoさんは......フットライツの部室探訪、ジョンの自筆入りスクリプトとの遭遇、ニューヨーク図書館での大発見、マイケルの母校訪問......と、もう何度も、60年代のケンブリッジを、ロンドンを、ニューヨークを、シュルーズベリを、「実体験」したことだろうと、ほんとうにうらやましかったのです。こうした才能を持ち得なかったわたしは、ガラス越しに標本をながめるようにして断片とにらめっこするか、時の旅人となった方の冒険談をわくわくしながら聞かせてもらうのを楽しみにするというわけです。

「地下鉄」の発達は、冒険家にはなれないけれど、冒険家と篤志家とが作った郊外のちょっとワイルドな公園までなら足をのばせるという一団をつくったのだと思います(わたしを含めて)。このことで冒険家の栄誉が減じるわけはありません。そして、冒険家はときには公園を散策することはあっても、そこで落ち着いてしまえるわけがないのも、当然のことだと思います。公園に集う花見客を置いて、颯爽と次の冒険にお出かけなさいましな。

Posted by: エフェソス | 27 March 2007 at 17:41

あううう、くそう読んじゃった。
読んだら、うらやましくてうらやましくて旅に出たくなると分かっていたので、akkoさんのところの過去ログはなるべく失礼していたのですが、読んでしまいましたよNY編。いいお話でした本当に(涙)。はあああ(余韻に浸っている)。くそうNY行きたくなったぞ。

あれですよね、アナログ・デジタルという以前に、情報にバックストーリーが必要なのですよね。自分の知恵と勇気と体力と金と費やしたものであれば、なおさらそのストーリーが深くなるのは必定ですよね。
これは、意外と奥深い問題を孕んでいる気がするのですよ。デジタル化、ネット化の前で、これからどんどん情報が平等になってゆくわけじゃないですか。それに濃いバックストーリーを付加することは、多分アナログ情報の時よりもよっぽど困難で、そういった困難を前に、人間はそれをどうやってクリアしてゆくのか、それともクリアしないのかという。
そして、偉そうなことを書いているこの自分は、そういった意味ではデジタル化を上手く乗り越えられそうもない予感バリバリなのですが・・・・。

よっぱらっているので何だか分からないことを書いて申し訳ないですが、一連の皆さんの議論を大変面白く読ませていただいている者として、一言書かせていただきました。

余談ですが、NY編でお書きになってた、テリー・ジョーンズがマテリアルを提供していたかどうかという件。そういえばキム・ジョンソン氏の著作に、学生時代から既にオックスフォードペアとケンブリッジペアは意識しあっていて、ケンブリッジがオックスフォードのネタを使った云々とかいう話が載っていたような気もします。勘違いだったらすいません。ひょっとしてもう解決してますかこれ?
そういえばちょっと前まではキム・ジョンソンの本を手に入れるのも本当に大変で(以下略)。

Posted by: みうら | 29 March 2007 at 13:18

3月24日のわたしのレスは、YouTubeの中にあるいろいろなものの質を混同している(新旧のTV番組か、TV以外のものか、商品化寸前の蔵入りか、それとも少人数で作られ他のメディアを経ずに直接あげられたものか)ふしがあります。青さんはモーガンさんのレア映像のことに絞って書いてくださっているので、わたしももう少し整理して書くべきでした。すみません。

整理しきれていなかった理由には、YouTubeが出てきて以来、ヲタク行動とは何なのか、行動して見てきたものが行動しなくてもキーを叩くだけで見られるようになっているということは自分にとって何なのか、とよく考えるということがあります。YouTubeの出現により、YouTube(だけではなくその他のインターネットはもちろん本や雑誌などの古典的なものも含め)と、ヲタク行動に走る自分との関係の見直しをせまられる感じがしている。いや大げさでなしに、そういうまとまらない考えが入りこんできているからだと思います。

なにしろインターネットより先に生きている人間ゆえその環境の革命的変化にまだ対応しきれておらず、以下もたぶんとり散らかしたままですがどうぞご勘弁ください。

でも要するに。
一応今の人間なので、情報は情報としてメディアで見聞きしています。
けれど自分の足で歩いて探して見たり見つけたりするのはもっと楽しい、しかも自分がやるのがいちばん楽しい。
つまりそういうことなんです。

それはどこがどう楽しいのか。
こないだ遅ればせながら「武士の家計簿」を読みました。内容の明確さと興味深さとともに、この貴重な資料に対する著者さんの愛がひしひしと行間から立ちのぼってくるとても好感のもてる本でした。冒頭の数ページにある、いかに著者さんが古書店の目録でたまたまこの物件を目にし、「これは自分がずっと探していたあれに違いない」と見抜き、そのまま神田まで走って行って入手したかというくだりが素晴らしい。わけてもその古書店の店主が「あれだよ」と指し示したその資料が入っていたのが、「温州みかんの箱であった。」というひとことが最高でした。そうそうそれそれそれなのよ、そのものが温州みかんの箱に入っていたことが著者さんにとってはすんごく重要で大切なことだったのよ。と思いました。

不勉強にして「ふりだしに戻る」は未読ですが、「その時代から変わっていない場所に行き、その時代の物に囲まれ、その時代を思い描く」、実はこれケンブリッジでよくやります。街なかのファルコン・ヤードは完全に消滅してしまいそのほかの部分も開発されているけれど、それでも昔の写真を探してきて比べてみると、街並みそのものは驚くほど残っている。それからカレッジ群は断固として昔のままだ。だからダウニング、エマニュエル、ペンブルックの3カレッジがこんなに近所にある以上、この道を若いあの人たちが日々うろうろしていたんだろうな、ジョンは正伝で「ファルコン・ヤードにはダウニングよりペンブルックの方が近くて云々」と言っていたから、てことはあっちではなくこっちの道をこう通っていたんだろうな。このカレッジの門とか塀とか建物はそのときから一秒もとぎれずここにしれっと建っててそういう光景を見てきたわけで、ちくそう、うらやましいぞ門と塀と建物!いや人間だから無機物にからんだりしてはいけない。しかしわたしもぜひそういう光景をしれっと見たいものだ。なんとかふと見えたりしないものかうーんうーんマハリクマハリタ。と、オトナのくせに基地外みたいなことをほぼ本気で念じて道の真ん中で半目白目でトランス状態に陥っていると、ケンブリッジは意外と交通量が多いので車にはねとばされて危険です。

えーと、とにかくそういうふうに一度見聞きしておくと、忘れない。忘れないでおくと、ジョンがふと「ファルコン・ヤードにはダウニングよりペンブルックの方が近くて」と言っているのを読んだとき、あのへんのあの道のことだろうと見えるわけです。エリックがファルコン・ヤード時代はたいそう楽しかったと言っているとき、あのあたりにいりびたっていたんだろうな、となんとなく目前に浮かんでくるのです。

そしてその自分が感動している感覚は、どんなにがんばっても、残念ながら人に完全に伝えることはおそらく不可能です。それはいかに自分が面白い夢を見てもそれをおそらく人には伝えられないのと似ています。もちろん情報としては「ファルコン・ヤードへの道はここにあった」とか「ファルコン・ヤードのフットライツの部屋はここらにあった」と書けます。それをウェブに上げることもできます。ただどうしてもそこに含みきれないものがある。それは「あの感じ」です。「あの感じ」とは、ああなんて言えばいいんだ、だからあの要するに、自分が行動して見聞きした結果が実感となり圧倒的にまわりに立ちこめてくる感じ - うーんだめだやっぱりうまく言えない。とにかくそういうものは、いくら文、あるいは画像、あるいは映像をつらねたところでそれはとてもシェアできないでしょう。だから逆に言えば、「武士の家計簿」の著者さんが目前に温州みかん箱を見たときの気持ち、そのくだりを読んで口では「ああわかるーそうなのよねー」と言えますが、しかしそれはおそらくわたしには絶対にわからないのです。

もちろん「そんなもんシェアされる必要はない」という意見もあるかもしれない。というよりこの忙しい世の中、いかに聞きたくもない面白い夢を見たかという話を聞かされるほど退屈なものはないですし、あるいは情報の結果だけを知りたいときに、そういう濃い裏話をくっつけられたところで「うざい」と言われるのがオチかもしれないです。

ただ、うっかり「メディア上の情報では伝えきれないものがある」と自分で実際に知っている以上、たとえばメディア上で何か興味のあるものを見聞きしたとき - それはYouTubeでもその他のウェブでも本でもなんでもいい、とにかく自分以外の人の手によるもの  - するとつい、
「これはもっと面白いはずだ」
と思ってしまうくせがわたしにはあります。
そして困ったことに、実際に自分で行動してみたらやっぱりすんごく面白い場合が多いのです。

こうなっちゃうともうやめられないというか、こんな面白いことを見逃してたまるかという意地というか、もう「飽きるか、死ぬか」の勝負というか。いや勝負なのか。勝ち負けって誰がどうやって決めるんだ。誰にどう勝つというんだ。とかいろいろ細かい疑問はありますが、とにかく、わたしはこういうことをわりといつも考えていたりします。おまけに考えるだけでなくこんなふうにバカのような長文体質ですみません。でも、いや人生パイソン現場主義で行くべし。「パイソンズに愛を。そしてカネと時間を。もっと。」です。

それからみうらさん。テリJとニューヨークのサーカスの件、確か大英図書館で見たフットライツの63年度レビュー「A Clump of Plinths」の脚本表紙にもテリJの名前があり、正伝にはそのころ一緒に食事に行く間柄だったという話も出ていたし、やはりけっこう交流はあったようですね。もっともどのマテリアルがそうなのかはわかりませんが。本人に訊いてももう忘れてるだろうしどうしたものか。

Posted by: akko | 29 March 2007 at 19:33

青です。レスレスありがとうございました。

akkoさんにとってアナログな活動がどんなに大切で、折角見つけだそうと思っていた物品が他人の手で添え膳にされてしまうことが、どんなにがっかりなことか分かりました。akkoさんのお気持ちも知らずに自分の希望を押し付けてしまい、申し訳なく思っています。思えばYouTubeを使うことにためらいを感じてらっしゃると聞いて、焦ってしまっていたような気がします。今までは共通の情報を手がかりにああだこうだと話し合えたのに、だんだん噛み合わなくなっていくのが寂しかったのでした。何かを発見するまでの過程が楽しいのは、否定しようもありませんが、発見した後の活動がいかに楽しいかを強調すれば、ひょっとしたら妥協してくれるんじゃないか、なんて考えがありました。そしてそんな風に感じているのはわたしだけではないと踏んでいたのですが、それも間違いだったかも知れません。なにしろakkoさんの冒険談(もしくは釣りレポ)は、そういえばとても面白かったんですから。楽しみにいらしている方々にも、自分勝手な申し出をしてしまったことをお詫びしたい気持ちです。

ところで、違ったら大変失礼なのですが、万が一のためお伝えしたいことがあります。もし「沢山の物件を目にすることにより、探す物がすっかり無くなってしまうんじゃないか」と案じてらっしゃるとしたら、そこらへんは大丈夫だと思います。akkoさんが何かを見聞きしたことで「バカ馬」の存在を知ったように、「バカ馬」を見ることで何か別の未見物を発見するかもしれませんし…いや、それはちょっと無理があるでしょうか。でもなんだかわたしには、探し物は後から後からやってくるもので、絶対に尽きない、という確信があるのです。
 ちなみにわたしが今一番見つけたいものは、ISIRTAの、グレアム・チャップマンが出演している回です。グレアムについての資料からはその存在を示すものがぼろぼろ見つかるのに、ISIRTA関連からはなんにも出てこないので、首を捻っています。これで全てだと言われているエピソードに耳を澄ませても、グレCらしき声は聞こえてきません。akkoさんは何か御存知でしょうか…。それから、初期の『I'm Sorry I Haven't A Clue』も探しています。特にビル・オディが「ごめん、無理だわ」と言って収録室を出たっきり戻ってこなかった、という第2シリーズ最後の回が聴きたくてたまりません。

しつこいとは思うのですが、宣伝媒体としてのYouTubeについて少しだけ…。
 実を言うと、先の書き込みをしている段階ではenoさんの説に懐疑的でした。探して、見つけて、観る、という狙い撃ち的なYouTubeの仕組み上、「なにかの間違い」が起こる確率はテレビに劣ると思ったからです。育ち盛りのメディアとして、YouTubeも現代人のテレビ離れに影響していることをかんがみるに、むしろenoさんのおっしゃる効果とは逆に働くのではないかとすら思いました。しかし、「たまたまどこかで噂を聞いて気になっていた番組を、ちょっと試しに観てみたい」といった場合、YouTubeが大いに活躍することを思い出し、1クッション置いた出会いなら確かに促進させるだろうと気付きました。しかもこういったハマり方は「テレビをつけたらやってた」場合と比べても発生率が高いものです。akkoさんがフォルティで経験したような横スクロールが起こりづらくなるという問題はありますが、enoさんのおっしゃるような企業利益には繋がり得ると思います。なにより、”自分たちの持ってるコンテンツによっぽど自信がなければできない戦略である”と条件付きにした点で大賛成です。各企業のクオリティに対する意識を向上させることに繋がるのではないかと期待しています。

Posted by: 青 | 31 March 2007 at 00:57

親記事から始まり一連のコメントの意識と質の高さに、いちいちヒョエーと半歩引き下がって心底感心しながら読ませてもらってます。
akko さんのおっしゃることはすごく共感できます。ひとつの発見(たとえそれが既に万人に知られているものであったとしても)は、自分の足を動かして時間をやり繰りして身銭をきった分だけ、重さと思い入れを持ちますし、もんのすごく楽しい過程だと思います。もう娯楽です。その探求の旅の過程の一部分として YouTube の One Click が図書館の検索カード1枚と等価(の娯楽)に相当する、とごく自然に受けとめられる時代が来るのかもしれません。もう来てるかな? いやはや15年前にはインターネットなんて無かったのに。
しかししかし、グレアムが陽光を浴びて笑っている写真の件では鼻の奥がツーンとしてきました。幸せだった時を掘り起こしていただいて、akko さん、本当にありがとう。

Posted by: kick | 01 April 2007 at 15:29

http://www.youtube.com/watch?v=qkuG8uFLCBo
http://www.youtube.com/watch?v=Zh-zL-rhUuU

このへんを観ると、文化の違いがよくわかります。

Posted by: eno7659 | 15 April 2007 at 06:05

青さん&kickさん
超亀ですがこの話題は気になるのでまだゆるゆる進行中です。どうも妙な点ばかりにこだわり申し訳ありません。でもまだ考えながら書いているので、たぶん以下も意味が通っていないかもしれません。

1997年以来、自分でウェブサイトを作り共通の趣味を持つ方々とオンライン上でコミュニケーションをとるということをぽつぽつやっています。一応10年間、弱小とはいえどとぎれなく管理人をやってきた経験から言うと、2001年ごろを境に人とインターネットの関係が急に変わったような印象があります。最初にネットが登場しそれを触った20代の人間にとっては、それは「後から来たもの」であり、うわあすごいメディアが現れたもんだ人間のありようがかわった衝撃だこれをどうすればいいんだろうか、とそれだけでうかれていました。しかししばらくして21世紀に入ると、あるときを境に「ネットが最初からあった人々」が普通に登場してきて、ネットもまた古典的情報源と同列としてとらえられ、その存在に特に浮かれもせずワノブあってアタリマエのメディアになったような感触があるのです。そのあたりから、人間はインターネットに対する「浮かれ」を通過し、その先に淡々と進むという第二の姿勢が現れたとわたしは感じています。

青さんが自由自在にネットなりYouTubeなりをふつうに利用してすいすい泳ぎまわっていらっしゃるのを見ると、それはもう第二よりももっとその先にいる方だという気がします。自分はまるでモノリスに手をつかねていまだにウホウホ言ってるさるみたいです。

というようなことを考えていた一方で、こないだたまたま手に触れ読みなおした「恐怖の谷」の中で、ホームズ君が

「ぼくは現場にこそ神が宿ると信じている」

という意味のことを言うくだりがあり

思わずハタと膝をうちました。

ちょっと正直な話をします。
わたしはむかし英音楽が好きでした。だからロキノンなどを読みいろいろ聞き海賊版なんかもあさり、もちろん英音楽の人々が来日したら見に行きました。で、それで自分は英音楽を聴いていると思っていたんです。

ところがこっちに来てわたくしは完璧に打ちのめされました。
現場ではもう何もかもがまったく違うのです。
詳細には触れませんが、その違いにはわたしがそれまで信じていたことが全部ひっくりかえされました。
思わず「申し訳ございませんわたくしが間違っておりました」とバッキンガム方面に土下座をしたくなりました。

自分のもとめる情報には他の人のノイズが入らないほうがいい、とそれ以来わたしはなんとなく考えています。
だからそれほど思いいれのない、ふつうのさがしものならYouTubeに行って見たりします。
けれど何か真剣なさがしものをしている場合、わたしはおそらく最終的な情報源としてYouTube(あるいはインターネット全般)は選ばないでしょう。なぜかというと、議論の余地はありますが、個人的にはそれは一次資料ではないからです。いやYouTubeにあるものは一次なのかもしれないけれど、それを見分ける手段が見る側にはまだ確立されていないとわたしは感じます。

まだ(超亀ですが)続くかもしれません。


enoさん
ランバージャックの女の子がかわいいのでぐっと来ました。しかし親の中の人は何を考えているのでしょう。ぐれても知らんぞ。でも4月29日のエントリのように、さまざまなパイソン関係イベントに行くと親子連れが大量にいて子供たちが歌ったり踊ったりしているので非常にうらやましくなります。enoさんは以前そういう文化と環境を日本における「ドラえもん」のそれにたとえていらっしゃりなるほどと思いましたが。

Posted by: akko | 24 April 2007 at 23:29

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