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14 April 2006

14APR : 「研究入門」と男もすなるパイソンといふもの

4月も半ば、夏時間も始まり、英国中部のラットランドもようやく春めいてきました。この「春めいた」とは、あくまでも「寒いと感じなくなった」程度のものではありますが、それでも寒くないだけでわたしは幸せだ。そして英国の田舎の春はいつもいやになるくらい美しい。もう絵に描いたように、これみよがしなまでに美しいので、わたしは丘に立ちつくし「うーんやられたうまくやってやがるな英国のカントリーサイド」と毎年つぶやかずにはおられないのです。

うちの近所です。


新緑はもう少し先のラットランド。人家は奥の林のむこうにあります。


さて、
下↓の4月9日日記に、みうらあゆみさんがつけてくださったコメントに触発されここで少し続きを。

これは個人的な経験にすぎませんが、英国の場合、女性のパイソニアンをわたしは今のところひとりも見たことがありません。もちろん例えばマイケルファンは女性だらけで、サイン会ではマイケルは老若女性にモテモテなのですが、彼女たちがそこからパイソンに来るかというとそうでもないようです。わたしはいまだに、マイケルのサイン会に並んでいるとき、ある女性に「ホーリー・グレイルって何?」と訊かれたときの衝撃が忘れられません。

これもやはり個人的な経験なんですが、あるときコメディの話をしていたら、ある英人女性が「フライング・サーカスは面白いかもしれないけど見ない、何故ならあれは男の番組だから」ときっぱり言いました(ちなみにその人は、フォルティ・タワーズは大好きなんだそうです)。頑丈な英人女はたいがいの下ねたにはびくともしないことを考えると、それは下ねたが多いとかそういうことではなく、フライング・サーカスには彼女たちに二の足をふませる、結界のように強力なナニカがあるのだと見た方がよいようです。

その結界とはなんだろう、と考えると。
フライング・サーカスには「普通の女」が出てこないとこにあるんじゃないか。
出てくるのは、ペッパーポットか、さもなくばキャロルのような過剰に色っぽい薄着のお姉さん、あるいはヘルズ・グラニーズです。まったくもう (^^;) どれも男性の目から見た女性のステレオタイプまたはカリカチュアです。

現代の英人女性には、これはおそらくシャレにはなりません。やばいったらありゃしない。いくらBBC様がファンキーなテレビ局であるとはいえ、はたして今再放映できるのかどうか。これが堂々とまかり通っていたというのが、男女性差に関して非常に敏感な今の英国的基準を考えるとほとんど信じられないです。当時のBBCは男だらけの社会だったんだなあと感じます。

余談ですが、パイソンはまだましな方であって、アト・ラスト・ザ・1948・ショウでのエイミ・マクドナルドの扱いなんか、はっきり言って「色気しかない頭の弱い添え物おねえちゃん」です。60年代だったのだ、なにもかも。かえって、パイソン的社会階級ねたの方なら今でもおそらく問題なく放映可だろうなという気がします。うまく説明できないんですが、社会階級は昔も今もこれから先も当分この国に普遍的に存在するものであり、だから笑ってよいものとして了解されているというか。

閑話休題。
では現代にパイソンを持ってくるとき、そのままでは出せないからというので
「研究入門」の著者さんは、キャロルを7人目のパイソンとしている。
それから、以前おフランス版のパイソンズが結成されたと話題になったことがありますが、そこにも女性がひとり混ざっている。→★★★
このくらい踏みこまないと、特にフェミニズム的見地から見て、現代においてパイソンは正当化できなくなっているのかもしれません。

で。
わたしは個人的には、一応そういう見地が普及している国に暮らしているので、今の基準ではパイソンの女性描写はたいへんやばいぞと理解はしています。けれどもかといって「まったくけしからん猛省を促す」と朝日新聞に投書しようとかそういう気分にもぜんぜんなりません。いや朝日新聞ないですけどこの国には。

おそらくそれは、わたしが結局英人女ではないからでしょう。いや身もふたもない言い方ですが、結局完全に対等な立場には絶対になれないわけですし。そのこともあり、どうやら「パイソンは別腹」と認識、それを見るときに「このステレオタイプまたはカリカチュアは自分を揶揄するものではないのだ」と、無意識にフェミ的な思考を切り離しているふしがわたしにはあります。

というよりそんな小難しいことではなく、ただ単にジョンの女装が好きだからかもしれず。ここで突然わたしは「ジョン女装を擁護するために戦う会」を結成するので、ラットランドの村宛てに寄付をどしどしお送りください。プレミス夫人(グレアムとペアで出てくるペッパーポットの片方)なんかカッコイイじゃないですか、だってなにげでフランス語しゃべれるんですよ。確かグロリアという名のディンズデールの彼女も妖艶ですてきですなあ。なにより足がキレイだ。なんだか真にフェミである皆様におこられそうな結論になっちゃいましたが。

それにしても。
上記を書いている間中、
「ハウ・トゥ・イリテイト・ピープル」でジョンが語っていた

「ある日私が
『女性とは、一般論をすべて自分個人のことだと解釈しがちな生き物だ』
と言ったら、
それを聞いた女性が
『わたしは違うわ!』
と言いました。」

というくだりがジョン声でしつこく頭によみがえるので困りました。しょーがないなあ、女って。

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Comments

たびたびの書き込みすいません、でも実に興味深く読ませていただきましたもので・・・。

考えてみると、私はドラッグに関して演じる側の生理的作業ばかり頭に置いておりました。きっかけは、コミカルな女性役は女優に頼むよりも自分達で演じた方がてっとりばやいということなのでしょうけれど、結果として、性差や階級差といったところから軽やかであるための一助になったのではないかと思っていたのです。なので、それが例え同僚の女優達に不満をもたらすとしても、むしろ方向としては、フェミニズムによりそう形なのではないかというのが自分の推測だったのです。うーん、でもそれはミスリードなんだろうなあ。

きわめてノーマルかつ対等な男女関係を求めるとすれば、あのような女性の使い方、描かれ方は、視聴者側にとっても確かに結界ですよね。イギリス女性はそういうモノを求める方が多いのでしょう。
しかし、日本でフライングサーカスがNHKで放映されプチブームになった時、がーっとファンになった若いお嬢さん達には、まさにこの結界こそが”萌え”の対象であったのだと、私は確信しています。いや私にとってもそこがなににも代え難い魅力なのですが。これは、現代日本における”フェミニズム”というものの変貌を示唆している様な気もするのですが、それは流石に話を広げ過ぎです私(汗)。

それはともかく、今回の本で”キャロル7人目説”がどういう意味付けになっているのか、よく分かりました。ますます興味をそそられるところでございます。

それにしても、ジョンは性差にしろ階級差にしろ、実に転換点の上にいて苦悩をしているように見受けられるのですが、そこがジョン専の方には魅力だったりするのでしょうか?
彼の女装の個人的ナンバーワンは、やっぱりディンズデールの彼女ですねえ。綺麗だよなあ、気が強そうで。アン・エルクまでいくとちょっと化け物入ってますが。
マイケルの女装、TJは人生狂想曲のサーモンおばさんがイチオシのようですが、私はやっぱりおばあちゃんが可愛くて好きです。

・・・すいません、フェミかパイソンかと言われたら、やっぱりパイソン取ってしまう私は根性なしでしょうか。

ああなんか長くてすいません。

Posted by: みうらあゆみ | 14 April 2006 at 17:25

★ みうらさん
その動機は「金がない」とか「てっとり早い」でしたが、彼らが選んだ「男が女の服を着る」という方法は、特に当時は今以上に社会の神経を逆撫でするものであったようです。で、例えばクリーンエアシステム夫人なんかがいたとして、わたしなどはそれを見て「やっぱりエリックはかわいいなあ」と思っていればいいわけですが、現実にああいう地方都市のあまり裕福ではなさそうな住宅街に住み洗濯物を干したりしている当事者であるこの国の女の人にとっては、あれはやはり神経逆撫でもので、指を強くさされるようにきつく失礼な表現なんだろうと思うのです。ひょっとしたらいまだにそうなのかもしれません。

だから、日本のお嬢さんの「パイソン萌え」現象は非常に興味深いです。英語圏でも一応スラッシュなんてのはありますが、やはりあの「萌え」な感じ、パイソンズを愛でるというか可愛がるというか、海を越えてくるときに英国社会のみで通じるヤバい意味が抜け落ちて純粋な存在となっているというか。しかも「イギリス人しかもパブリックスクールとかオックスブリッジとか」という新しい価値が上に乗っかってもいて。その結果、「やっぱりエリックはかわいいなあ(はあと)」とわたしはつぶやくのです。いや、わたしもどちらかというと、コウモリ的に価値観の間をふらふらさまようばかりで。

> そこがジョン専の方には魅力だったりするのでしょうか
するどい。そうなんです。少なくともわたしにとっては。苦悩するジョンはすてきです。というか、別に苦悩しなくてもいいはずのところで、わざわざみずからを苦しい方へ苦しい方へと追いこんでいった挙句に「うわー苦しい」と言ってるかのようなとこが非常にいいのです。ジョン本人は苦悩でたまったもんじゃないでしょうがそれでも。

Posted by: akko | 15 April 2006 at 18:57

えーと。おふたりの書き込みを眺めていてふと気がついたのですが。このやりとりは、「萌え」という現象のかなり本質を突いているのではないかと。思われます。
つまり。
「『萌え』とは対象の無害化である」
と。
たとえば。
備長炭を「萌え」によって擬人化したキャラクターに「びんちょうタン」というのがいます。Wikipediaによると彼女は「頭の上の備長炭で水をきれいにしたり、ごはんを炊く釜に入れられたり、靴箱の臭いを取ったりする」そうですが、どうやら焼き鳥屋で正肉やねぎまを焼くために燃やされることはなさそうです。
また。
「鉄道擬人化」というジャンルがあります。ここでも「萌え」の力によって秋田新幹線が「こまち」に、九州新幹線に接続する特急が「つばめ姐さん」になったりしていますが、彼女らの目の前に自殺志願者が飛び込んできてグモッチュイーーーンン、という描写も慎重に避けられているようです。
例が偏っているというご批判は甘んじて受けますが、つまり。

「萌え」化された対象物は私に危害を加えない。

メイド喫茶や執事カフェが流行るのも、ひとえに「主人である私に奉仕する店員」の無害性が明示されるからだろうし、「萌え」本来の発現型であった幼女であれば、まだ何も知らないからお、お兄ちゃんがあぁんなことやこぉんなことをしても、ぜ絶対いやがらないのだぁぐひひひ

(ただいまの書き込み中に変質者が紛れ込みましたことを深くお詫び申し上げます)

ともあれ、「対象を無害化することで、コミュニケーションにおける自らの安全を確保する」のが「萌え」のメカニズムであり、「パイソン萌え」もその発動と見て間違ってはいないだろう、だってカワイイんだもん。

「パイソンを愛でる」とか「パイソン萌え~」とかをあんまり連呼してると妙な爬虫類好きと勘違いされる節もなきにしもあらずですが、リアルな爬虫類好きの皆さんも自分が育てたパイソンに食われることは想定してないでしょうし、「いや、いつの日かこいつが俺を丸呑みにすることを考えるとハァハァ」という奴はさっさと食われちまえ。

Posted by: eno7753 | 01 May 2006 at 16:56

★ eno さま
祖国を後にしはや幾年、とはいえメールやネットを通じ日本語を読み書きする機会は残されているのでさすがに言葉を忘れるところまではいかないものの、やはり「今そこにある日本語」とは切り離されての生息を余儀なく送らされている浦島、というよりはガラパゴスゾウガメ生態のポンニチにとり、離日以来一番理解が難しかったのがこの「萌え」という単語でした。ようやく、それはひょっとして昔はロリとかショタとかアニヲタとか、その特殊な二次元幻想の対象ごとに呼び分けられていたあの感じをまとめたものっぽい、でもちかごろはその用法が拡大されて、俳優や歌手など一応現実に存在する大人が対象でも萌えたりもするらしい、とちょっと理解したつもりでいたのですが。その炭のカタマリを幼女擬人化して愛でるというのはいったいなにごとですか。同じ自然界の無生物でも、草野心平先生の石の擬人化とは相当なへだたりがあるような。それから鉄道、それもやはり「きかんしゃやえもん」の世界とは別の基準にあるようですが、いったい擬人化に事欠いてどこまでその触手をのばそうというのでしょうかこのおそるべき「萌え」とは。

もっとも、「それは私に危害を加えない」という理由で幻想方面に走っている人々は、「萌え」という言葉が現れるずっと前からいたわけです。「ヲタク」とか呼ばれて。そして、ヲタクとか萌えとかそういうレーベルができるたびに、朝日新聞様なんかが「最近の若者のコミュニケーション能力の低さが嘆かわしい猛省をうながすひるがえってなにもかもみんな政治が悪いんだ」とか結論づけます。

しかしごく普通のヲタのなかには(「ごく普通のヲタ」とは物凄く矛盾する言葉ですが)、萌え幻想時は萌え幻想モード、一般社会時は一般社会モード、と意識的に切り替えて使い分けて生きている人もたくさんいるはずです。とりあえずそうして社会で働かないと、ごはんも食べられないしDVDも買えませんし。もっともその切り替えスイッチまで焼き切れて、幻想の方に浸食されて飲みこまれているような、あとひと押しでマーク・チャップマン、みたいな人もいなくはないのでしょうが、ヲタ的コミュニティ内ではそっちの方が例外だと思います。ただ、そういう人たちは目立つので、そういう例外がサンプルとされステレオタイプにされている可能性が高いような。

それにしても、「それは私に危害を加えない」というメカニズムで発動するものが萌えだとしても、対象によってその後にたどる道は異なってくるような気もします。仮に炭のっけた仮想の幼女が相手ならば、その先も幻想のお花畑でそれなりに楽しくやっていけそうですが、例えばそれがパイソンのみなさんだった場合。いやここから先は自分の感覚を一般化している可能性があり申し訳ございませんが、なにしろジョンに「一般論を自分のこととして個人的に取る生き物」呼ばわりされた女のハシクレとしてはその逆だって平気でやっちゃうわけでして。ともかく。パイソン幻想の初期には、いやあやっぱりエリックはかわいいなあ、と思って楽しく遊んでいられるかもしれませんが、その先に踏みこんだとき、実は彼らは20世紀後半華麗に没落する阿鼻叫喚な英国の苦悩を背負いつつ(あるいは背負っていると思いこまされつつ)身を削るようにして生きていた人々である、ということをうっかり理解したら最後、踏みこみ方が深いぶんだけそれが直に伝染してきて、もう幻想はもはや心地よいだけのものではなくなり、というか積極的に人を苦しめ得る存在ともなり、なんでこんなにクルシイことを手間ひまかけてわざわざやっているんだ自分、とじたばたしても手遅れかつ無駄、もはや尻の毛までムシラれるような、というか自らムシってさしだすような有様であり、しかしその一方でその行動をやはり心地よいと感じたりもしておりその矛盾する感覚は自分でも理解できず、ああもう神様、これからいい子でいますから、どうか次の人生にはもっとまっとうな炭幼女趣味の人間に生まれかわりますように。と息も絶え絶えに祈るばかりです。こんなに時代を越えて伝わる近代英国社会の苦悩、それを体現しつつしかも人を笑わせるという仕事で生きねばならぬ、それはちょっと例がないほど大変な人生だったに違いない、ううんクルシい、クルシいがしかしそれはそれとして、とりあえずエリックはかわいい。と、やっぱり都合よく使い分けていたり。

ところでわたしはジュリアン・バーンズの「フロベールの鸚鵡」を尊敬しています。なぜならば、「クルシいヲタ的人生」のお手本にしたいような素晴らクルシいヲタ文章がみっちり詰まっているからです。ここまでクルシいことを書ききれるヲタになりたいものです。いや、まじめな英文や仏文系の方が今一斉に「これはそんな本ではない」とツッコミをお入れになったのがかすかに聞こえたような気がしますがそれはそれとして。

Posted by: akko | 06 May 2006 at 11:24

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